TANAKA DENSHI TWELVE #2

突然の社長就任の裏側。臆病な僕がリーダーになるまで

父が“もう会社に来い”と言った一言で人生が変わった

小学生時代は臆病でビビり。中学では「勝てそうだから」と卓球部に入り、計算高く試行し部長へ。大学では“平成らしい”自由を謳歌し、社会に出て営業職で揉まれる。そして父の病をきっかけに、23歳で現場デビュー。27歳で社長となるまでの田中秀司の“リアルな36年のヒストリー”を語りつくしていきます。

平成生まれ、
いわゆる“ゆとり世代”のど真ん中

私は平成2年生まれの36歳。いわゆる“ゆとり世代”のど真ん中です。
ゆとり世代という言葉だけが妙に擦られてきた感覚もあり、自分たちでどうにもできないのに評価だけ先に決められるような、少し理不尽さを感じた時代でもありました。

幼少期は臆病で、どちらかと言えば真面目

小さい頃から私はかなり臆病で、いわゆるビビりだったと思います。階段を一段ずつ慎重に降りたり、釣り堀でも両側に水があると真ん中しか歩けませんでした。

今でも駅のホームで背後に人がいると落ち着かず、柱を背にして待ちたくなったりします。エレベーターでも、ボタンの主導権を握っておきたいという気持ちが出ることがあります。気遣いというより、不安が先に立つ性格なのだと思います。

小学生の頃は、見た目もかなり太っていました。今の私からは想像しづらいかもしれませんが、当時は丸く、どちらかと言えばおとなしく、勉強の方が好きでアクティブなタイプではありませんでした。

中学で卓球を始め、
そこから自分が変わり始めた

中学に入ってから、私は卓球を始めました。

実は当初、野球部に入ろうと考えていました。公園で草野球をするような世代でもありましたし、自然な流れでした。ただ、見学に行った中学の野球部が強豪で、当時の私は「ここではレギュラーになれない」と判断しました。

その一方で卓球部の練習を見て「これならレギュラーになれるかもしれない」と、少し計算してしまいました。今振り返ると、こずるい判断だったかもしれませんが中学1年生の私はそう考えました。結果として卓球部に入り、最終的にはエースになり部長も務めました

その頃から卓球にのめり込み、テストの点数は徐々に落ちていきました。勉強中心だった自分が競技中心の自分に変わっていったのだと思います。

スポーツ推薦で進学、
卓球一色の高校時代

高校は卓球のスポーツ推薦で入りました。男子校でスポーツ推薦のクラスに入り、生活はほとんど卓球一色でした。

最低限の勉強はして卒業しましたが、正直、学業の比重はかなり小さかったと思います。好きだったのは数学くらいで、いわゆる「脳みそは理系寄りだけれど、進んだのは文系」という感覚に近いです。

“THE 平成の大学生”

大学に進学し、高校まで卓球に振り切った分、大学では勉強しようと決めて、最初の1か月は本当に勉強しました。勢いで簿記3級も取りました。ただ、勉強熱はその1か月で落ち着いてしまい、その後は皆さんが想像するような、いわゆる“平成の大学生”らしい生活になっていきました。

卓球部出身の男子には分かる感覚だと思いますが、当時は部活カーストのような空気があり、男子だと野球・サッカー・バスケが上位にいて、卓球はどこか言いにくい位置に置かれることがありました。そういう小さなコンプレックスも背負っていたのだと思います。

その反動もあってか、私は大学でテニスサークルを選びました。ラケット競技の共通点もありますが、正直なところ“デビュー”したかったのだと思います。日焼けして真っ黒になったり、練習より飲み会が多かったり、よくある大学生の過ごし方をしていました。

アルバイトもしながら、4年間で卒業はできましたが、22歳の頃には肝臓の数値に引っかかっていたくらいです。今は健康です。

営業がしたくてベンチャーに

大学卒業後、私はいきなり田中電子に入ったわけではありません。普通に就職活動をしました。私たちの世代はリーマンショックの影響もあり、就職環境は厳しかったですし、2012年卒の私は、大学生活の終盤に東日本大震災も重なりました。

ただ、私は大手企業を一社も受けませんでした。ベンチャーか、もしくは成果が強く求められる営業職を中心に見ていました。不動産の飛び込み営業のような世界や、外資系保険の営業など、とにかく「営業がしたい」という気持ちが強かったのだと思います。

最終的には、社員数が30〜40名ほどのベンチャー企業に営業職で入りました。ジャンルとしては少し珍しく、保険適用外の介護サービスを広げようとする会社でした。私は介護施設の施設長やケアマネージャーに営業するような、いわゆるBtoBの営業をしていました。

在籍期間は半年ほど。長くいたわけではありませんが、継ぐ意志自体は当時から自分の中にありましたし、父の健康状態についても学生の頃から気になる部分があり、早く実力をつけて継ぐべきだという思いは、ぼんやりと持っていました。

父からの「会社に来い」で
田中電子に入ることを決断

ちょうどお盆前に、会社で「大阪拠点を立ち上げよう」という話が出ました。そして私もその立ち上げメンバーの一人として行ってくれと言われました。新卒としては素直に嬉しい話でしたし、その話を土産話のように持って帰省したところ、父から「もう会社に来い」という話が出始めました。

父がなぜそのタイミングで声をかけたのか、今となっては詳しくは分かりません。ただ、父は頭の良い経営者でしたので、フローチャートのように未来を考えたのかもしれません。大阪拠点がうまくいけば、私がベンチャー側で重要なポジションになり、辞めづらくなる可能性があります。うまくいかなければ、失敗体験を抱えた状態で戻ってくるかもしれません。どちらに転んでも、私にとって「良い未来だけが残る」とは言い切れない。そう考えて、早めに呼び戻したのかもしれません。

就活段階で父と深い話をしたわけではありませんし、単純に「顔を見たら来いと言いたくなった」程度の理由だった可能性もあります。ただ、結果として私は田中電子に入ることになりました。

ショップスタッフから始まったキャリア

田中電子に入ってからは、いわゆるキャリアショップのスタッフとして現場から始めました。当時は料金収納も新人が最初に覚える業務でしたが、私はその料金収納ですらもたつくような状態でのスタートでした。カタログの裏にスタンプを押すような作業も含め、ショップスタッフの仕事を一つずつ覚えていきました。 だから私のキャリアで最も分厚いのは、ショップスタッフの経験です。社長になったのが27歳ですので、現場での経験はおよそ5年ほどになります。店長も2店舗ほど経験し、複数店舗を束ねるマネージャーになり、営業のトップとして全店を見る立場も経験しました。

今でも、実は一番やりたいポジションは店長です。社長という立場があるので任命されることはありませんが、許されるなら店長をもう一度やりたいと思っています。今の優秀な店長たちと、売上や運用実績で勝負してみたいと本気で思うくらいです。店長という仕事は、本当に楽しく、良い仕事だと感じています。

現場の忙しさと評価の問題意識

現場は忙しいですし、追われることもあります。ただ、仕事がたくさんあるという状況は、裏を返せばありがたいことでもあります。仕事がない状態から抜け出す方が、よほど難しいと私は思っています。

一方で、どれだけ多くのことをクリアしても評価が変わらないとしたら、不毛な気持ちになるのも理解できます。この業界は変化が激しく、指標も変われば商材も変わります。私たち自身も変わらなければいけませんし、お客様にも世の中の変化に一緒に乗ってもらうことが、仕事の大きな役割の一つです。

だからこそ、変化に合わせて努力し続けた人がきちんと評価される仕組みが必要だと考えています。評価のあり方については、完璧はありませんが、私はこだわっているつもりです。これは現場で店長をやり、多くの人と一緒に仕事をしてきた中で、肌感覚として得たものが大きいと思っています。現場目線になるには、直接経験することが一番強いとも感じています。

店長を任された経緯

私が最初に配属された店舗では、当時「最強の店長」と呼ばれる人が店長でした。入社から1年ほど経った頃、当時の店長が体調を崩し、退職することになりました。

その店舗は集客力が高く、会社としても非常に重要な拠点でした。そこで「お前がやるしかない」という話になり、私は23歳で店長を任されることになりました。その後も別の店舗で店長が退職する流れがあり、次の店舗でも店長を務めることになりました。

社長就任期は“お飛車落ち”状態での
スタートだった

こうした流れが、創業者である父の体調悪化と重なっていきます。癌が分かり、余命半年と言われ、バタバタと引き継ぎが進みました。

社長就任にあたって、周囲がどう感じていたかは本音の部分は分からないところもあります。ただ、私が社長になる少し前から、新人研修や販売研修を私が担当するようになり、全社員を集めて売り方のロープレを繰り返すような取り組みをしていました。その結果、離職率が上がった時期もあり、私は変化に対してストレスを与えてしまった部分もあったと思っています。

さらに同じ年度の2月、当時営業本部長として父の右腕だった存在が亡くなりました。父はその2か月後の4月に亡くなっています。

創業者を失い、営業トップも失う。いわば「お飛車落ち」でゲームが始まるような状態で、会社はリスタートしました。今思い返しても記憶が薄いほど、相当焦っていたのだと思います。「このままではまずい」と本気で思いました。

通常の二代目社長のように、会長に上がって時間をかけて引き継ぐ形ではなく、強制的に素早いリスタートを切らざるを得ない状況でした。

その時期から一緒に走り始めた人たちにとっては、感覚としては「第二創業」のようなものだったと思います。戦場のようなバトルモードで、余計なことを考えている余裕がない状態がしばらく続きました。

今回は前編として、私の幼少期から学生時代、そして田中電子に入社して社長になるまでの流れをお話ししました。次回は後編として、社長になってからのおよそ8年を振り返っていきます。

話し手

田中 秀司

田中電子株式会社 代表取締役社長

1990年生まれ。田中電子の二代目社長。27歳で社長就任後、第二創業期を牽引し、46店舗まで事業を拡大。創業40年以上の歴史と若い価値観を融合させ、通信キャリアショップ代理店として日本一を目指す。

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